停滞

新しいクラスで授業はじまってからバタバタして更新できてなかった。

ドイツ、無事行ってきました。オクトーバーフェストの話も書いておきたいけどそれはまた今度、最近のささいな出来事だけ取り急ぎ~

・足くじいた
2年前思いっきり右足首怪我したときとまったく同じようにやってしまった。石畳でヒールはだめだわ。今回はすぐ歩けたのでセーフ。
しかしその後大学まで歩く元気がなくてバスに乗ったら行き先間違えて死にかけるというおまけつき。何人もの道行くイタリア人にどこでどのバス乗ったらいいかきいてなんとかたどりついて、あの瞬間ばかりはイタリア人の優しさを感じた…

・日本映画をイタリア語字幕で観た
けっこうためになる。しかしアパートとか電車とか桜とか、日本の景色を観たらそれだけでぐっときてしまった。

・胃が小さくなった
この前の週末は父に会いにミラノへ。父やその仲間と、めちゃくちゃ食べて飲んでの昼夜を久々に過ごして実感、もう全然食べられない。こんなんじゃグルメになれないわ~~

・勉強不足
やり方を変える、というかもっと勉強しないと。放課後ぼんやり過ごしてちゃだめ。使える言葉をもっと能動的に増やしたいし映像観るとかそういうこともしていきたい。

・承認欲求?宗教?
お察しのとおり自分のイタリア語が進歩している実感がまっっったくなく、気が塞がっている。さらに父に会ったことで日本での日常を思い出してしまい、ホームシックではないだろうが(ホームシックてなに?)、イタリアでの生活から逃げたい、楽したいという気持ちに支配されている。いまなんとか日本帰らないでいられているのは、たくさん旅行したいっていうただそれだけのモチベーションによる。
そんなわけで、勉強がんばってるね、それでいいんだよ、よくなってるよ、って言ってくれるひとが欲しい。これ、ただ誰かになぐさめてほしいのかな、承認欲求の問題かなと思っていたがどうやらちがう。
勉強面で絶対に信頼できる存在があればめちゃくちゃ楽になれるんだよね。このひとはすべて知ってるから、このひとを信じて進めば大丈夫、って思えるの、精神衛生上かなり大事なんじゃなかろうか。いまこの瞬間、世の中で宗教が求められる理由が大いにわかる……。(そういうわけで誰でもいいのではなく、事情のわかるひとにアドバイスしてもらいたいという感じ。それを誰かに相談することもできずもやもやしているんですねえ…)
そういえば受験生時代も信頼できる先生にひたすらついていく信者スタイルで乗り切っていたことを思い出す。あと模試だのなんだの、客観的に自分の能力を評価してくれる機会がコンスタントにあったのもよかったんだろうな。ああいう数値をみて気持ち的に救われていた部分はあった。
でも考えてみるとこういう信仰って、終わりがあるものに対してのみ有効なんじゃないかなあ。受験も、人生も、終わりというか目指すべきゴールがあるから、それに向かって進めるんだよねえ。
その点語学って、終わりがないものな………そういうのが苦手なのかもしれない。経験がないだけか。正解としては、自分で少しずつゴールを設けることなんだろうけど、どんなゴールがいいかねえ…
とりあえず、この思考の途中で出てきた「承認欲求おばけを知り合いのいない土地に放り出したら簡単に発狂する(あるいはそのままなおる)」という仮説を書き留めておきます。